うえみずゆうき脳内議事録

うえみずゆうきのブログ。思ってもいない本音など。

「やった」は「慣れた」で決める

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社会に溶け込もうとすればするほど、その「空気」みたいなものに打ちのめされるのです。

たとえば、自分なりに相手を思いやった末の遠慮が、かえって失礼になったり。

「曖昧にするのはよくないな」と考え、はっきり物申せば相手を傷つけたり。

結局、コミュニケーションに絶対的な正解などなく、あるのは相手にとっての正解だけなのでしょう。

相手にとっての正解なんてものは、多様化してきた社会においては言語化しないと分かるわけがないと思うのです。

「察する」とか「以心伝心」などという、日本らしい慣習というか文化というか、そういうものが機能するにはみんなが同じじゃないと不可能なんじゃないでしょうか。

それともテレパシーが使えないぼくこそが人として(日本人として)随分ヤバいのかもしれません。

いずれにせよ、それが個人の責任で済む話であれば、いくら相手を怒らせてしまったとしてもぼくは気にしないと思うんです。

怒らせてしまった後で、謝ることも、話し合うことも、疎遠になることも自分で選ぶことができます。

しかし、多くの場合、何らかの組織や共同体に所属していることが多く、自分だけの責任として見てもらえないものです。

なんだかそういうのがとても息苦しい。

ぼくは社会(というより世間)というものにいつまで経っても馴染めずにいます。

所属に向かない人間なのでしょう(「人間」にも関わらず)。

「甘いよ」と言われればそれまでですが、もしかして社会不適合とはこのことをいうのかも知れません。

そう認めたいわけでも認めたくないわけでもなく、ただただ違和感が湧き起こるのです。

結局、10代や20歳そこそこのむやみやたらに尖っていたあの頃の自分と、本質的には今も何も変わってないんだと思います。

「このままじゃダメだな」と、自分なりに世間に歩み寄ろうと尽くしていますが、単純に向いていないようです。

やらないうちから決めつけるのは「幼稚だ」と思うけれど、やってそう思うことはきっとそうなのだと思うのです。

人生は一度きりですから、誰かの顔色ばかり伺っていても仕方ない(その誰かは特定の誰かではなく世間という顔のない誰かだったりもします)。

しかし、最大の問題は、どこまでやれば自分自身がやったと判断できるかです。

 

今のぼくの判断基準としては「慣れて(分かって)から決めろ」です。

「やった」は「慣れた」と置き換えることができると思っています。

慣れるまでの時間や回数は人それぞれです。

自分が「慣れた」と思えたとき、それはもう「やった」上で判断できるレベルといえるんじゃないかとぼくは思います。

慣れてからは、もはや好き嫌い以上も以下もない、そういう次元だと思うのです。