うえみずゆうき脳内議事録

うえみずゆうきのブログ。思ってもいない本音など。

本音が許されないのは批判する目が貧しいからではないか

感情的に発したものには論理的な批判が群がりやすい。
論理的に発したものには、感情的な批判が群がりやすい。
人は、正反対のものに惹きつけられるのだ。

さて、
前者の批判はなかなか爽快だが、
後者の批判は弱者の戯言でしかない。

論理の味方をしたくて、こんなことを言っているのではない。

(正直なところ論理は論理であてにならないと思っているが)
感情は個人的かつ刹那的であり、論理以上にあてにならない。
そんなもので計られた批判など、他者と共有する意味などないではないか。
工事現場のノイズと同じ、いや、こちらに向けて意図的に発信されているのだとしたらそれ以上だ。

感情で評価・判定されたものに
いちいち耳を傾けていられるほど人生は長くない。
僕たちは今日死んでもおかしくないのだから。
工事現場のノイズにずっと耳を傾ける人はいない。
工事現場の人でさえ、ノイズに耳を傾けているわけではないだろう。

僕は、しばしば感情というものを全力で否定することがある。
しかし、感情そのものを否定する気は毛頭ないのだ。
そこを間違えて欲しくない。

物事を批判的に見ることの大切さを噛み締めているだけだ。

「批判」という言葉が、
随分ネガティヴに捉えられるのは、
感情でしか批判できない人が多過ぎるからだろう。
そうして、共通のイメージが作られていく。
批判=感情で罵られた全くあてにならない上に不愉快な個々人の評価
となってしまう。

批判にネガティヴなイメージがつくと何が困るのか?

本音が許されない世界になってしまうのだ。

「本音」には、いつだって批判がつきまとうのだから。