うえみずゆうき脳内議事録

うえみずゆうきのブログ。思ってもいない本音など。

僕が少数派の味方をする理由

揺るぎない自分の意見を持つ人にとって、
自分が多数派であるか少数派であるかというのはどうでもいいことだ。

自分が「よい」と思ったことが、
結果として多数派だった、少数派だったということに過ぎない。


しかしながら、
揺るぎない自分の意見を持つ人がどれほどいるというのか。

いや、意見や価値観はその都度変更してよいのだ。
むしろそのほうがよい。


大切なのは、
周りに圧力をかけられるべきではなく、
自分が「やっぱそっちの方がしっくり来る」と自分で変更するべき
と言いたいわけだ。


ある大学生が言った。

「私はもう単位は全部取ったし、あとは卒業するだけ。講義を受ける必要はないけれど、
受けたい講義があって受けているんです…。でも、友達からは、その行動が理解されなく
て変人扱いされます。遊びの誘いも講義で断ってしまって、私は付き合いが悪いのでしょうか。」


これは僕の見解だが、

その友達はだいぶ頭がおかしい。
人類の毒とさえ思う。
大学は学びに行くところなのだから、学んで何が悪いというのか。
「大学生」と名乗りながら、遊び呆けている方がどうかと思う。


しかし、
問題はどちらが頭がおかしいかではない。

僕の見解が正しいというつもりも毛頭ない。

ただし、
どちらの人間が多いかということで、
一般的であるか否かが決まってしまう風潮には気をつけてほしい。


彼女のいる環境では、
大学の単位を取り終えているのに勉強するのは少数派なのだそうだ。



僕は基本的に少数派の味方である。

勿論、そのテーマにこだわりがある場合は、
自分の価値基準に準ずるが、
「どうしても」のこだわりがある場合というのは、
案外少ないものだ。

おおよそ少数派の味方と言い切っても差し支えないだろう。


では、
なぜ少数派の味方をするのか。

それは、少数派には思考が止まっていない人が多いからだ。
思考が止まっていれば、大衆に流されてもうそれで終了。

「あなたの意見は?」

「◯◯!」

「僕は一般論が聞きたいんじゃなくて、あなたの意見が聞きたい。
本当にそれはあなたの意見なの?」

「……」



一般論という大きな川の流れに反して、
少数派であるということは、
自分の価値観を大切にしていないかぎり日本ではあまり考えられない。


この大学生も
実際「私って変なのかな。友達の誘いを取らなくていい講義で断るのは最低なのかな。」
と随分ブレてしまっている。

「学ぼう」という、せっかくの自分の判断が大衆に流されていく。


多数派とか少数派とか、
所詮は数量の違いでしかない。
数量が違うからどうという話でもない。

それなのに、人と違うことを恐れ、自分が自分であることを隠してしまう。

仮面は分厚くなる一方だ。


僕は、自分らしく生きようともがいている人を応援したい。

そういう生き方がしたい。

自分らしさの種、小さな決断を無碍にする連中から守りたい。